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30年ほど前のことだ。あるニュースをつかみ、路上で当時Jリーグのチェアマンだった川淵三郎さんにぶつけたことがある。「俺に聞くな」と頭から怒鳴られ、続けて出てきた言葉は「答えちゃうじゃないか」だった。
変わっていない。
川淵さんはスポーツマンである。政治家ではない。自宅では取材を受けないと決めていたのに、記者が集まれば話してしまう。夜に新手の記者が集まれば、彼らにも話してやらねば、と考えてしまう。それがあだとなった。
東京五輪・パラリンピック組織委員会の後任会長を頼まれ、固辞するつもりで訪れた森喜朗氏宅でその無念に触れてもらい泣きし、「勘弁してくれ」とはとても言えない状況に追い込まれて「人生最後の大役」を受諾した。その高揚感もあったとして、誰が責められよう。
密室のやり取りが明らかになったことで政権が難色を示し、人事は白紙となった。川淵さんは「全ては僕の責任。何もないといって家に入ればよかったが、それが僕にはできなかった。今はもうすっきりしている」と話した。本心かもしれない。そうではないかもしれない。
ある元日本代表選手からメールをもらった。「覚悟を持って要請に応えた方に対する礼儀は尽くすべきです」とあった。同感だった。
平成5年5月15日、照明を落とした満員の国立競技場で一人スポットライトを浴び、川淵さんはJリーグの開会宣言を行った。「スポーツを愛する多くのファンの皆さまに支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かってその第一歩を踏み出します」。不可能と揶揄(やゆ)されたプロリーグの創設を実現した一世一代の晴れ舞台。それでも、体感した興奮や感激は、昭和39年10月10日、快晴の東京五輪開会式でサッカーの代表選手として競技場に足を踏み入れたあの瞬間には及ばないのだと聞いた。
令和元年5月、御代替わりに際して文芸評論家の新保祐司さんと本紙での対談をお願いした。川淵さんは新元号を機に「日本を取り戻すことが必要」と述べ、「少子化の中で国の存在感をどう持つか。それは一人一人が日本人としての矜持(きょうじ)を持つことだ」と熱く語った。令和の東京五輪では「来日する外国の人々に、やっぱり日本人はすばらしいなと思って帰ってもらいたい」と話した。一旦は組織委会長就任を受諾し、観客を入れての大会開催にこだわりをみせた根底には、この思いがあったはずだ。
組織委の後任会長に川淵さんの名が挙がったとき、混迷の中でベストの選択だと思った。川淵さんには五輪への熱情がある。人を動かす言葉がある。逆境に立ち向かう突破力がある。年齢とは無縁の気持ちの若さがある。女性登用の実績もある。
筆者は東京でオリンピック・パラリンピックがみたい。新型コロナ禍にあって大会開催への世論喚起という難題に向け、最適の人選と思えた。
9競技12リーグで構成する日本トップリーグ連携機構会長就任時に宣言したように、五輪を覆う暗雲に手を突っ込み、「奥歯ガタガタいわしたる」蛮勇を振るう姿がみたかった。
持ち上げられた末にはしごを蹴り飛ばされた一連の混乱は、スポーツが政治に蹂躙(じゅうりん)されたように映った。あまりに残酷な仕打ちで、残念で、気の毒で、腹立たしかった。
五輪は歓迎されてこその祝祭だ。ボタンの掛け違いはどこから正せばいいのだろう。
筆者:別所育郎(産経新聞)
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2021年2月16日付産経新聞【スポーツ茶論】を転載しています